ソーシャルゲームに関して思う事。

私自身、ソーシャルゲームの一種のmixiアプリやグリーの物を触る事があり、課金無しで時間のつなぎに触れている程度。

で、少し前にゲームショーか何かで、グリーかモバゲー社長のコメントに賛否両論あって沸いた事があったが、私自身のソーシャルゲームに関する感想は以下の通り。

ソーシャルゲームは一つのシステムとして存在できるだろう。」

「今後末永く続く可能性があるか不明であろう。」

「他のゲームを脅かす存在では無く、別カテゴリーとして捉えるべきだろう。」

何と言うか、ぶっちゃけソーシャルゲームって、単語にゲームって入るからゲームカテゴリーとして捉えるのであって、実際には多少別物として考えるとしっくりくるのではないだろうか?

私はゲームでは無く、セラピーとかサプリメントとして捉えた方が良い気がする。

ここいら辺は、各々のユーザーが各々のゲームに関して認識が違うのだろうから違いはあり、究極的に言えば「ゲームとは?」となるので何とも言えない。

ただ、ゲームのヘビーユーザーが、単なる商業重視だとして頭ごなしに否定する物ではないだろうと考える。

無論、売り方の仁義もあるし、現在のソーシャルゲーム業界が既存のゲームを駆逐出来ると言うのは思い上がりすぎではある。

十年ほど前。西暦2000年頃の状況考えてみよう。

当時「家庭用据え置きゲームは今後生き残るのが難しい。携帯電話にダウンロードアプリとしてゲームが主流になるだろうから、今後は携帯電話ゲームの時代だ。携帯電話の性能は向上するし、いちいちパッケージソフトを買うのは手間だからダウンロード主流となる。」との議論をしていたのは、紛れも無く当時の業界とかユーザーとか。

で、現状はその延長線上に過ぎないだろう。だとすると今更騒ぐのはちゃんちゃら可笑しい。

で、この10年の間の時間経過を考えてみる。

据え置きゲームの市場は消えましたか?と言っても、どっこい元気に残っている。

携帯電話ゲームの存在も残っている。現在に続くソーシャルゲームもあるが。

携帯電話で通信料金がかさむと言う話が出て来てはいるが、そもそも「パケ死」と言う単語を私がいちばん古く聞いたのは2003年であり、この点をソーシャルゲームの否定材料とするのは弱すぎるだろう。

(5歳に満たない子供に対して携帯電話を与えて遊ばせたら通信料金が膨大となったと言う事件が話題になったりもしましたが、そもそも低年齢層の玩具に携帯電話持たせている事も異常である点を考えるべきだろ?イタズラで110番や119番掛けられるんだぜ?)

課金制度も、リアルマネートレードとどちらが良いのか?と言う話も出そうだ。

で、そんなこんなで、ソーシャルゲームが存在してもおかしくない状況に関しては、個人的に10年来変わっていない手垢の付いた本質があるように感じる。

で、当初上げた3点について。

ソーシャルゲームは一つのシステムとして存在できるだろう。」

ソーシャルゲームの最大の特徴でメリットは「携帯電話を使用している」事と考える。

これは、携帯電話を再生機として選択している事を示しているのでは無く、傍から見たら「携帯電話を使用しているようにしか見えない。」「メールしているのかメモをしているのかネットを見ているのか見分けつかない。」って事も一理あるかと思います。

ゲームに触れているのが普通の状況となる人には判りづらいですが、勤め人が休み時間に食堂に居て、最低限TPOとか考えたりしながら休憩時間を取っている際に、軽い気分転換したい時に携帯ゲーム機取り出してカシャカシャ遊んでいるのは、非常に度胸がいります。満員電車でも同じ。

携帯電話の片手で親指操作のみで大概の行動取れるのは、気付きにくいかも知れませんが非常に「デカイ」利点です。

そして、大体ボタンを押すだけで展開進行が進み、シンプルで内容希薄なものは、仕事合間の気分転換に妥当であるかと言えます。

ゲーム性は全く無いですが、ここで求められているのはゲーム性で無く気分転換と言うセラピーでありサプリメントであり、そこに「解けないストレス」や「失敗するストレス」が多い」物は、この件に関しては不要であるかと言えます。

その際に発生する現象は、「遊ぶ度に蓄積が発生する。」事と、「他者との接点がある。」事があると言えます。

日々の生活と別の個所で、蓄積がある事がユーザーを引き付ける点は、ゲーム性の無いトレーディングカード販売の要素と一致しますし、他者との接点を感じさせる事をセールスポイントとするのは、様々な場所で使われる定番手法である。

〜ロワイヤル等の蓄積を奪い合うようなシステムのゲームも存在するが、奪い合い以外での蓄積される点が存在したり、自分の蓄積が奪い合いのメリットとなったりするので、必ずしもマイナス要素とならず、他者との接点のメリットとして上回っているのであろうと考える。

ソーシャルゲームのプレイヤー自体、NPCが多数の可能性が高いが、ここはユーザが孤独を感じさせない工夫が活きれば問題無い。

「今後末永く続く可能性があるか不明であろう。」

そこで、ソーシャルゲームがそのまま続く物かと考えるが、そう簡単に行かないであろう。

あくまでも「気晴らし」の範疇であれば上記のメリットの範囲で良いが、結局限られた範囲での蓄積や、他者との接点の範囲ではシンプルすぎる。

清涼剤のフリスクが御飯の代わりとして満腹になるような話が無いように。

蓄積があってもそれぞれのソーシャルゲームの中での蓄積であり、そこで蓄積されるデータが魅力的で無ければ意味は無い。

行きつく所、どこかで見たキャラクターをいくら描いた所で、結局既存のキャラクターを活用した物には敵わないのは事実であろう。

すぐれた紛い物を描いても、オリジナルがオフィシャルでキャラクターを使用許可してしまうとそれには敵わない。

何より携帯電話等の「携帯するハード」だと、画面の大きさの限度がある為、濃密なキャラクター表現を求めると限界があり、実はこの点据え置きゲーム機の生き残る道は有りうると考える。

そして他者との接点も、複雑なやり取りが出来ないシステムのソーシャルゲームで出来ない為深みが無いのは事実。

一定以上の参加人数のゲームだと、参加時間の違いのでユーザー間のステータスの壁が出てきて、同じ土俵の参加が出来ないデメリットもあろう。

「他のゲームを脅かす存在では無く、別カテゴリーとして捉えるべきだろう。」

結局、ソーシャルゲームがあるけど携帯ゲームハードでモンハン遊ぶユーザーが居るように、サプリメントとしての限界もあるだろう。

表現方法の濃密さを描くには、テレビで遊べる据え置きハードに勝負できる点もある。

ゲームのキャラクター性を高める→濃密に描いた物を、ユーザーの目でじっくり味わいたいとするなら、なおさらであろう。

そして単純に「ボタンを押しているだけで気分転換」と言うセラピーとしては、最大のライバルは家庭用ゲーム機では無い。

多くの人間が「パチンコをしている」事も着目すべきであり、パチンコをしている人間からすれば「絵に描いた餅の為に金を払うだけ。もしくは、絵に描いた餅だけ。」のソーシャルゲームに興味は示さないだろう。

現時点で考えるに、家庭用ゲームとソーシャルゲームは別カテゴリーであると言うだけだな。

ユーザとしては選択肢が多いのが幸せな事であるんだろうが。

そうそう。家庭用ゲームの場合は「プレイヤーでありユーザー」であるけど、ソーシャルゲームの場合「ユーザー」のみと感じます。

また何か考えがあったら、文を上げます。